「ディア・ドクター」

西川監督の前作「ゆれる」がとても見応えあったので、今回も期待して劇場へ。
過疎の村の医師不足終末医療といった問題提起はあるものの、映画のトーンは終始明るく、観ていて楽しかった。達者な役者陣、吹き渡る風が客席にまで届くかのような豊かな映像、小気味よい音楽、どれも良いのだが、観終わった後からじわじわと脚本のすごさが分かってきた。綿密な取材に基づいて作られていて、なのに押し付けがましさがなく、とにかく浮わついた台詞が一つもない。
(できれば「嘘」の正体は知らずに観たかったと私は思った(映画が医師の失踪から始まるので、予告編も公式サイトもネタばらしには当たらないという判断なんだろうけど)ので、この先、未見の方はご注意を)
ひとつ例を挙げるとすると、ベテラン看護婦(余貴美子)の「別れた亭主が医者だったんですよ」の一言。この一言で、なぜ彼女が伊野(笑福亭鶴瓶)に協力しているかが、なんとなく観客に伝わる。この「なんとなく」のさじ加減が絶妙なんだよね、なにかと台詞で状況を説明しようとする拙い脚本家はぜひ見習ってほしいものだ。他にも、過去と現在を織り交ぜた構成もいいし、りつ子(井川遥)‥はそうでもないか、若い研修医(瑛太)の父親(そして、もしかしたら伊野自身の父親や看護婦の元亭主も)を、伊野と異なる「大病院の」「経営しか頭にない」タイプの医師として配したあたりもニクい。
医者の資格って何なんだろう、免許証一枚がなんぼのもんじゃい。そりゃ、専門知識のないニセ医者に診てもらうのは抵抗あるけど、患者の話に真摯に耳を傾け、深夜でも呼ばれれば即座に出向き、村人に尽くした伊野の行為は、詐欺の一言で切り捨てていいものなんだろうか。
ここからは想像なんだけど、年収2000万が魅力だったのかもしれない。辺鄙な田舎ならバレないと思ったのかもしれない。でも、伊野は心の中でずーっと「医者になりたい」という思いを抱えていたのではないだろうか。父親が大病院の医師で(娘はあの大学落ちたのよ、というかづ子(八千草薫)の言葉や、ペンライトからなんとなく分かる)、息子の自分も期待されたが夢かなわなかった。医学部に行くことさえできなかった。若い頃は、父親や医者という職業に対して屈折した想いを抱いていたのだろう。それが、長年ペースメーカーの営業で病院を回っているうち、身分詐称という思いもかけぬ方法でのリベンジが可能であることを知る。そして伊野は、歪んだ形ではあったが自分の夢を実現させたのだ。だから彼は人情の医師を演じ続けられたんじゃないだろうかと。結局は自分のついた嘘に縛られ、どんどん身動きできなくなり、でも村を逃げ出した一番のきっかけが、嘘がバレたからではなくて、りつ子の「年一回帰ってくるのがやっと」(=母親の死に目に会えない)という言葉だったってとこがまた、上手くできてたなあ。彼なりの責任の取り方を見せたラストシーンも、すごく好き。
もうひとつ、終末医療の問題についても考えさせられた。自分が治る見込みのない病気になったとき、大病院のベッドでぽつんと寝たまま日々送るのと、身体が動く限り畑仕事を続けるのと、どっちが幸せなんだろうかと。これは「伊野だったら、母をどう死なせたんだろう」というりつ子の台詞にもあったよね。
村の爺さんが臨終のときを迎える。ぐっと手を握りしめる嫁。処置を施そうとする医師を先回りして家長が云う「先生、ありがとうございました」。映画の序盤ですでに、無理な延命をしない死(死んでなかったんだけど(笑))がさりげなく描かれる。そして、村で一人農業を営むかづ子。独り立ちした娘たちに迷惑をかけたくない、なんとかこのまま一人静かに住み慣れた家で暮らしたい、ああ、その気持ちすっごく分かるなあ。八千草薫のなんと上品でかわいらしいこと。
最後にキャストについて。鶴瓶さんがすごく小っちゃく見えたのよね。最初は、芸達者な役者陣の中で彼だけ本職の俳優じゃないからかな、と思ったんだけど、そういえば「東京上空いらっしゃいませ」(古い映画でごめん)のときはそんなことなかったし、そっか小さく見えたのは演技だったんだと終わってから気づいて、感心。一方、本物の医者を演じた井川遥はすごく大きく見えた。あんなに背の高い女優さんだったっけと。瑛太くんも爽やかで良かった。自分の利で伊野に協力する製薬会社の営業・香川照之、酒が入ると自慢たらたらの村長・笹野高史、そして余貴美子。みんなさすがの演技力。
もう一回、じっくり観たいなあ。
(映画館にて鑑賞)